統一教会2世が、統一教会信者の信教の自由を擁護することのコストがあまりに高いという愚痴。

 とりとめもなく愚痴。

 統一教会に対する批判と、統一教会信者の信教の自由を擁護する内容の両方を主張する記事を書こうとしたのだけれども、書いている途中で途方に暮れてしまった。

 統一教会に対する批判は、(想定読者である)世俗の人々の直観と整合的で気を使うことも少なくスラスラと書けるし、補足情報も少なくて済む。一方で、統一教会信者の信教の自由を擁護する内容は、人々の直観にマッチしないために、読者に正しく理解してもらうためには長々と情報を書く必要がある。

 たとえば、反統一教会派の人々が、数十年にわたって「脱会カウンセリング」や「保護・説得」と称して、統一教会信者を暴力的に拉致して監禁し棄教を迫っていたことは、統一教会内部の人たちにとっては常識である。信仰を棄てて統一教会に批判的な態度を取る2世ですら、その拉致監禁の存在は認め(だって身近に拉致監禁された人たちがいるし、証拠もたくさんあるしね)、批判もするのだけれど、世俗の人々にとってはそんなことは常識ではない。

 むしろ、そのような事実を述べれば、嘘ではないかと疑われるし(実際にツイッター上で大学教員がこれと関連した主張について「かなりの嘘や無理筋」と述べていた)、特に理由もなく嘘だと述べる主張のほうが何の精査もなく受け入れられる(拉致監禁強制棄教は事実だと論じる主張のほうは、裁判資料や加害者、被害者の発言をもとに念入りに内容を構成していてもだ)。たとえ、事実も含まれていると認めてもカルトを脱会させるためなら少し手荒なことをしても仕方がないと考える人も多い。

 統一教会信者が社会の中で抑圧的な差別を経験しているのは私にとってあまりにも明らかな事実なのだけれども、それを説明するには数多くの反論を予測しながら書かなければならない。反論を予測しているうちに、書かなければいけないことの量に圧倒されて気が滅入ってしまった。

 そういえば先月、反カルトを批判する内容をツイッターで書いたら、とある宗教社会学者に統一教会を「擁護」したとして(私は信仰の有無をネット上で明かしたことがないのに)「現役信者」だと決めつけられ、「現役信者」だから信用ならないというようなことを言われた。挙げ句には、じゃ脱会者なのか?と踏み絵を提示されたのだけれどもその学者の周りには誰も諌める人がいなかったようだ。相手が、「カルト」2世ではなく、ムスリムやクリスチャンかもしれない人々だったら、炎上した可能性は割とあるだろうなと思う。一般の人よりは宗教2世について理解のあるはずの宗教社会学者ですらこれ。

 統一教会2世というだけで、自分の主張の正当性を示すのにここまでコストがかかるのはなぜなのだろう。

 「宗教2世問題」なんて言っている人々の多くも結局は、「カルト」に抑圧された、「かわいそうな」2世の「かわいそうな」体験しか声を拾ってくれない。反カルトを批判すれば、それはもう「宗教2世問題」で扱われる2世ではなくなる。かわいそうと言いながら2世の口を塞ぐ人たちがいる。

 結局、冒頭で触れた記事は没にした。気力がない。また適当に書き直すかもしれないけれど。