櫻井義秀『カルト問題と公共性』の虚偽内容について

 本記事では、櫻井義秀『カルト問題と公共性』の第2章「四 脱会カウンセリングと信教の自由」にある虚偽内容と、そのほか問題のある記述に関して指摘します。

 ちなみに、「本書の調査研究は文部科学省日本学術振興会の科学研究補助金を受けてなされた」(あとがきより)もので、「直接関連あるもの」は、「宗教集団調査法の研究-社会問題化する教団を中心として」(課題番号 10871005)、「カルト問題と社会秩序-公共性の構築に関わる比較社会論的検討」(課題番号 16320010)、「カルト被害の救済と回復-レジリアンスの視角から」(課題番号 24101501)とのことです。

 

(2022/01/13追記)『カルト問題と公共性』を出版している北海道大学出版会は、査読システムがあるそうです。また、理事長は「櫻井 義秀(北海道大学大学院文学研究院教授)」とのことです。

 

目次

 

1.『カルト問題と公共性』における虚偽内容

 まず、虚偽内容について。

 櫻井は、第2章の「脱会カウンセリングと信教の自由」という節(57-63頁)で、統一教会信者に対する「脱会カウンセリング」(統一教会側の主張では「拉致監禁(強制棄教)」)*1についての批判に応答しています。

 ここで言及されている「脱会カウンセリング」(拉致監禁)批判についての文献は、①米本和広『我らの不快な隣人』、②太田朝久『踏みにじられた信教の自由』、③梶栗玄太郎日本収容所列島』、④室生忠大学の宗教迫害の4冊であり、櫻井はそれぞれについて論評しています。このうち①④は、統一教会外の宗教ジャーナリストによる著作で、①は拉致監禁批判、④は大学のカルト対策に対しての批判です。②③は統一教会側による、拉致監禁批判の主張です。

 虚偽内容として問題があるのは、②③についての言及です。櫻井は、この2冊について統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」(62頁)と批判します。しかし、両書ともに霊感商法問題にはわざわざ節や項を立てて触れているし、③においては「正体を隠した伝道」にも言及しています。

 ②『踏みにじられた信教の自由』には、「"霊感商法"キャンペーンの背景にあったもの」という節(112-140頁)を設けて、実に30頁近くにわたって霊感商法問題に関する教会側の主張を示しています。これは目次に目を通すだけでも確認することできるわけで、「見落としていた」というような弁明は不可能でしょう。

 ③『日本収容所列島』では、第四章「統一教会反対派による包囲網」の「2 福音派牧師の取り組み」の「(3)「霊感商法」キャンペーンの事前工作」「(4)先祖供養や占いを罪悪視するキリスト教」「(5)霊界の否定と十字架贖罪論」「(6)先祖供養を拒絶する理由」の4つの項(173-182頁)、第四章「統一教会反対派による包囲網」の「4 反対牧師と連携する左翼」(206-214頁)において、統一教会側の霊感商法問題に対する見解を論じています。

 さらに、宗教ジャーナリストの米本和広と、拉致監禁被害者(後藤徹)との対談を掲載した第六章においては、米本が統一教会の正体を隠した伝道を辛辣に批判しており、それをそのまま載せています。少し長くなりますが引用します。

 大きな問題は二つある。一つは正体を隠して勧誘していることです。徳野英治前会長が二〇〇九年の二月と三月に通達文を出してから、かなり改善されてきているようですが、まだ一部の地域では統一教会を名乗らずに勧誘しているところもある。いまだに手相勧誘しているところもあると聞いています。日本の最高責任者が指示を出したというのに、それが守られないようなら社会から完全に信用されなくなってしまう。

 そもそも、正体を隠すのはとても気味が悪いことなのです。得体の知れない宗教団体と思われるのは当然のこと。「拉致監禁はいけない」と一般の市民が思ったとしても、誰かが「でも、統一教会には問題があるからね」という一言で終わってしまい、統一教会の問題と拉致監禁の問題とが相殺されてしまう。論理的にはおかしなことだけど、現実はそうなっている。

 統一教会はようやく組織をあげて拉致監禁問題と取り組もうとしているようだけど、「拉致監禁ノー」が世論にならないのは、得体の知れない宗教団体と思われているからです。その原因となっている正体隠し、ひいては秘密体質を払拭しない限り、拉致監禁を根絶することはできないでしょうね。親だって、子供がそんな気色悪い団体に入っていたら、牧師たちの「脱会させるには保護説得〔筆者注:統一教会の主張するところの「拉致監禁」〕しかない」という言葉がすっと入ってしまいますよ。親から保護説得なんかとんでもないと思われるようにならなければならない。そのためには、組織体質を抜本的に改革する必要があります。

梶栗玄太郎『日本収容所列島』280-281頁

 上述したように、櫻井は「統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」と論じ、さらには「統一教会は反社会的行為をなすから批判されるのだが、その全体的な構図から批判されているという部分のみを取り上げて、宗教迫害が許されるのかという主張をしているにすぎないのである」と続きます。しかし、事実は、霊感商法にも正体を隠した伝道にも一言も触れないどころか合わせて数十頁にわたって言及しているし、上の引用のように反社会的行為として批判されている内容まで書かれています

 誰の目から見ても「〔 ②太田『踏みにじられた信教の自由』と③梶栗『日本収容所列島』が〕統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」というのが、虚偽の内容であることは明らかでしょう。

 

2.そのほか問題のある記述

 上述した『カルト問題と公共性』の問題箇所(第2章の第四節「脱会カウンセリングと信教の自由」)には、そのほかにも問題のある記述があります。一つずつ指摘しておきたいと思います

 

2-1.櫻井は拉致監禁は非難されるべき行為という当たり前のことを曖昧にしている

 すでに述べたとおり、②③が「統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」というのは虚偽の内容です。

 しかし、そもそもの問題として、統一教会がたとえ正体を隠した伝道や霊感商法といった社会的に批判されるべき行為をしていたからとして、信者を暴力的に拉致し監禁する行為が許されるはずがありません。正体を隠した伝道や霊感商法をしても、していなくても、拉致監禁は非難されるべき行為である以上、「統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」という批判は的を外しています。

 もちろん、櫻井の見解によれば、それは「拉致監禁」ではなく「脱会カウンセリング」だということになるのでしょうが、それならばそのことを説得的に示せばいいわけで、なぜ「統一教会による正体を隠した伝道と霊感商法には一言もふれていない」という的を外した主張(しかも虚偽の内容)を述べるのでしょうか。そうしなければ説得的に示せない理由でもあるのでしょうか。

 また、虚偽内容を指摘した部分でも引用したように、櫻井は②③について、「統一教会は反社会的行為をなすから批判されるのだが、その全体的な構図から批判されているという部分のみを取り上げて、宗教迫害が許されるのかという主張をしているにすぎないのである」と述べています。櫻井は、あたかも統一教会側の②③の両書が、「統一教会が批判されているから迫害されている」という安易な主張をしているかのように論じていますが、両書の大きなテーマが、拉致監禁という具体的な行為に対する批判であることは明らかです。「批判されているという部分のみを取り上げて、宗教迫害が許されるのかという主張をしているにすぎない」ということはあり得ないでしょう。

 拉致監禁という非難されるべき行為を非難している、という構図をここまでして曲解するのはなぜなのでしょうか。

2-2.櫻井は不誠実な記述で拉致監禁を批判する側の主張を矮小化している

 櫻井は本書で、度々、問題のある「脱会カウンセリング」(拉致監禁)はごく一部に留まるかのように印象づけを行っています。

 ①『我らの不快な隣人』では、「脱会カウンセリング」(拉致監禁)によってPTSDを発症した元信者のケースを扱っていますが、櫻井はこれについて「リハビリテーションがうまくいかなかったことが、ごく一部統一教会元信者が脱会カウンセリングそれ自体に問題ありと主張する背景ではないかと推測している〔太字は筆者によるもの〕」(59頁)とコメントしています。

 ②太田『踏みにじられた信教の自由』について、櫻井は、太田が(根拠資料を明示せずに)これまでの拉致監禁の被害者は4000件以上と主張している、と紹介した上で、「しかし、」とことわりを入れ、「脱会説得を受けた信者の証言は五件(脱会カウンセリングを訴えた裁判の原告・現役信者)に留まる」と述べています。③梶栗『日本収容所列島』の論評においても、「(梶栗があげた総件数四三〇〇件中、実際に文中であげた事例は一二件、太田とも重複)」と括弧で補足をして、実際の被害はごく少数であることを仄めかしています*2

 たしかに、たとえば、櫻井の述べる通り、②において拉致監禁された側の裁判の原告現役信者側の証言は5件しか扱っていません。しかし、②は拉致監禁した側の発言をソース(裁判での陳述や、著書、キリスト教系の新聞など)を示した上で提示し、拉致監禁された側の信者の裁判外での発言にも、これまた出典を明示して触れ、それを再構成する形で100頁以上にもわたって拉致監禁の実態を説得的に描いています。

 例を挙げましょう。②は、反統一教会側から出版された、川崎経子『統一協会の素顔』からの文章を以下のような形で言及しています。

 川崎経子著『統一協会の素顔』(教文館、90年4月出版)には、次のような元信者とその母の手記が掲載されています。

 

「夜11時近い時間……急に暗闇から、二人の男に襲われ……ハッと思った時には、力ずくで大勢の人に車へ押し込まれ」(12ページ)、「部屋にはいつも大勢います。林に囲まれた道は細く一本です。逃げることはできません。残された手段は、"偽装脱会"だけ……」(16ページ)、「○○先生は午後三時に来られ……娘は『帰って下さい。人権無視です』と目を光らせ……(説得する)先生は……帰っていかれる。……叔父は(娘の)道子の足を縛り、涙を流して言い寄って……」(35ページ)、「親戚の者はローテションを組み、交替で来てくれ……すでに脱会している富田君や中川君が来てくれる。……同じ場所に渥美さんという20歳の女性が保護されて入ってきた。(彼女は)大声でわめき、大暴れして……道子は渥美さんへひそかに同情を寄せている」(37~38ページ)

 

 信者を拉致した上で、逃げられないようにして脱会説得しているのですから、明らかに監禁です。ところが、川崎牧師は、あえてそれを「保護」「救出」と呼んでいます。

 

太田朝久『踏みにじられた信教の自由』73-74頁

 このようにして、太田は、上記の引用以外にも拉致監禁した側や信者側の多くの資料に基づいて、拉致監禁とされるケースが事実として多数存在していたことを示しています。100頁以上にもわたるこのような記述を読んだはずの、櫻井が、「しかし、脱会説得を受けた信者の証言は五件(脱会カウンセリングを訴えた裁判の原告・現役信者)に留まる」と論じるのは、嘘をついていなくても、誠実さという点において問題があるのではないでしょうか。

 

 櫻井は、以上のように、公に訴えた事例件数をもって、拉致監禁の実態を「ごく一部」のケースであるかのように印象づけています(この傾向は『カルト問題と公共性』以上に、それ以前に出版した、『「カルト」を問い直す』(2006年)に強いです)。しかし、拉致監禁において直接の加害者は、多くの場合、自身の親である以上、それを公に訴えることは家族を公然と批判することになり、その心理的負担がいかに大きいかは容易に推察されます。したがって、公に訴える人の数は(実際の被害件数よりも)必然的に少なくなるわけで、その訴えた件数ばかりを重視すること、それ自体が、被害の矮小化をすることにつながると言っていいと、私は考えています。

 さらに、統一教会から脱会した元信者が「拉致監禁」という手法を批判しない理由について、前述の③『日本収容所列島』における、米本和広と拉致監禁被害者(後藤徹)との対談において、米本が次のように説明しています。

 脱会者は、統一教会の人と会うのをものすごく恐れています。会ったり、連絡を取ったりしたことが家庭に知られた場合、「まだ統一教会のマインドコントロールが抜けていない」と判断される。そうなると、「また拉致監禁だ」ということになります。
 脱会者から拉致監禁批判の声がなかなか上がらないのは、正直、怖いからだと思います。
(中略)
 統一教会をやめて良かったと思っている元信者が保護説得を批判すると、家族から「保護説得しなければ、おまえは統一教会をやめることができなかったんだ。保護説得を批判するということは、あのまま統一教会にいて、霊感商法に従事していたほうが良かったということなのか」と反問されます。そうなると、元信者は精神の分裂を招くダブルバインドの心理状態となってしまい、何も言えなくなる。とことん突き詰めていけば、ほんとうに精神が引き裂かれてしまいます。

『日本収容所列島』268-269頁

 現役信者であっても元信者であっても、拉致監禁被害者には公にその被害を訴えることが難しい理由があります。他の根拠となる資料(拉致監禁した側の発言等)が多く提示されているにもかかわらず、櫻井がわざわざ、公に訴えた件数を強調するのはなぜなのでしょうか。

2-3.櫻井は米本の質問状に答える責任がある

 私は、櫻井は米本の質問状に答える責任があると考えています。

 これについては、本書(『カルト問題と公共性』)に内在している問題というよりは、櫻井自身の学問的姿勢に関わるものと言えるかもしれません。ごく簡単に述べます。

 櫻井は、『「カルト」を問い直す』において、米本和広による、統一教会信者への拉致監禁問題を告発したレポート「書かれざる「宗教監禁」の恐怖と悲劇」(http://www5.plala.or.jp/hamahn-k/gendai.htm)を取り上げ、それについて批判的検討を行いました。それに応じて、2006年に米本は櫻井に対して20にも及ぶ質問状を送っています。これに対して、櫻井はほとんどの質問に回答をせずに返信(返信①返信②)をしましたが、なぜか8年経ってから、『カルト問題と公共性』(57-59頁)において、この件について自身の見解を述べています。

 『カルト問題と公共性』での櫻井の回答は米本の20の質問の一部だけに返答したもので十分な回答にはなっていません。私は、米本の全ての質問が真摯なものであり、櫻井が、先に批判的に米本の著作に言及した以上、学者としてその質問に一つずつ回答すべき責任があると考えています。

 

最後に

 以上のように、櫻井義秀『カルト問題と公共性』には明らかな虚偽内容があり、問題のある記述も含まれています。

 この本は、アカデミアの中でも概ね高く評価されたようで、特に、櫻井と同じく宗教社会学者でありカルト問題研究を行っている塚田穂高は、『宗教研究』88巻2号の書評にて本書を「日本宗教社会学からの「カルト問題」への理論的応答として、現状では比肩するもののない金字塔的成果である」とこれ以上にないくらいに称賛しています。

 私は、学問共同体というのは、相互批判によって正気を保つ側面があると考えており、誰か一人の学者がおかしなことを言ったとしても、それを他の誰かが批判することで、共同体全体としては健全性を保つようになっているはずと認識していました。

 しかし、このような問題のある著作についても、「カルト批判」という「公共性」に訴えたら、誰も正しく批判しない。そのような状況であるならば、本当にその学問における「正気」が保たれているのか不安な気持ちになります。率直に言えば、(櫻井の著作だけが原因ではないですが)学問や社会調査という営みに対しての懐疑と、失望が自分の中に生まれ始めています。

 偶々、私が統一教会2世であり、拉致監禁問題について一定以上の知識があり、自分の周りにも被害者がいて、それに関する文献も読んでいたため、本書の問題を指摘することができたけれども、私の知らない他分野で同じようなことが起きていれば気づけない。専門家が間違いを指摘することのできない学問共同体をどのように信頼することができるのか。

 そのような、疑念が生じています。

 

 最後に、あえて櫻井『カルト問題と公共性』の言葉を引用し、学問共同体、市民社会、そして自分自身へ訴えかけたいと思います。

 カルトを批判する側が絶対的に正しく、カルト側が絶対的に間違いという認識の枠組みだけではきわめて危うい。何が正しく、何が公共的観点から妥当ではないのかについては、批判対象のみならず、自己についても常に問い続けるべき課題である。

298-299頁

*1:統一教会信者に対する「脱会カウンセリング」(拉致監禁)問題とは何か?と気になった人は、問題となる行為を「脱会カウンセリング」とする反カルト側の主張として、本記事で扱っている『カルト問題と公共性』(57-63頁)や、櫻井『「カルト」を問い直す』の第3章を参照してください。それに対して、「拉致監禁」として批判する側(統一教会外)の主張として、米本和広『我らの不快な隣人』(ダイジェスト版はこちらこちら)、国境なき人権(国際NGO)による報告書「日本 棄教を目的とした拉致と拘束」を参照してください。統一教会側の主張は、太田朝久『踏みにじられた信教の自由』、梶栗玄太郎『日本収容所列島』に整理されています。

*2:実際に、太田も梶栗も4000件以上という数字の具体的な根拠を示していません。そこは筆者も不満を感じる部分ですが、『我らの不快な隣人』『踏みにじられた信教の自由』『日本収容所列島』における内容、加害者/被害者の発言や、加害者側の著作を読めば、その数字がおそらく誇張ではないと判断しています。特に、『我らの不快な隣人』において、脱会した元信者が統一教会批判派であるにもかかわらず拉致監禁を批判していることは重要だと思います。また、統一教会2世である筆者の周り(たとえば「友達のお母さん」)にも、拉致監禁被害者はいます。それほど、統一教会員にとっては身近なことであり、「ごく一部」ということはあり得ないと考えています。